前回に続き僕は「日本の南の果て・沖縄列島」を目指しました。
今回はついに沖縄に上陸します。それでは始まります。
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飛行機に飛び乗ってついに沖縄上空を飛行。
そして、初めて見る沖縄。
旅行通から海が七色に見えるとの噂を聞いていましたが、本当の話でした。
それも晴れていた為、色濃く分かります。
飛行機は沖縄を一周するように旋回。アプローチ(着陸態勢)に入ります。
そして、ついに着陸しました。
そこで僕は沖縄の歴史として触れなくてはいけない光景を目にします。
中編①・②でお話しする内容は沖縄戦。そして琉球政府についてです。
僕の文才では上手く書けない部分もあります。お目汚しするかもしれません。ご了承ください。
さて、ボーディング・ブリッジ(飛行機と空港の間の通路)から空港に降りるとお花が沢山飾ってありました!!美しい!!沖縄だ!!
僕は、空港で沖縄原産のお花をたくさん見ました。
沖縄那覇空港は粋です。元気をもらいました。
そして空港を出て、ゆいレール(モノレール)に乗って10分未満、那覇空港と同じ沖縄南部にある奥武山公園駅でおりました。
そこからバス(55番88番98番のどれか(2022年現在))に乗って宇栄原団地前でおりました。
そこから丘(おそらく沖縄で最も有名な丘)を登って15分。
着いたのは、旧海軍司令部壕です。
是非、このサイトに訪れて頂いた貴方の目で見てほしいので写真は掲載しませんが、この旧海軍司令部壕の入り口は絶景です。
ここは丘の上にあるのですが周りに視線を遮る高さの建物が無いため、見晴らしがとてもよく景色が美しい沖縄市街地がよく見えるのです。
そうです、見晴らしのとても良いここに大日本帝国軍・沖縄海軍司令部壕があったのです。
この壕が建てられた理由、それは第二次世界大戦末期に、日本・沖縄で行われた『沖縄戦』の為です。
沖縄戦は、戦争末期に米軍の侵攻・日本本土決戦を食い止めるために行われた戦闘です。
米軍は沖縄中部から上陸しました。そして、北部と南部に侵攻。
まず、沖縄北部は激しい戦闘の末、陥落します。
そして、生き残りの沖縄の日本軍と県民は沖縄南部に後退します。
旧海軍司令部壕は沖縄南部の南寄りにあります。
ここを拠点として沖縄戦の殆どの戦闘を行ったのです。
この海軍司令部壕、作りは立派なもので沖縄戦の壕のなかでは滅多にないコンクリート製です。長さも450メートルあります。
しかし、僕が感じたのは、狭く・暗く・息苦しい壕で、作りは豪華でも他の壕と非常に類似していると思いました。
ここの壕の司令官は、大田 實海軍中将です。
沖縄戦の最後に自決なされます。死後海軍中将に特別昇進。
沖縄県民ノ実情ニ関シテハ県知事ヨリ報告セラルベキモ県ニハ既ニ通信力ナク三二軍司令部又通信ノ余力ナシト認メラルルニ付本職県知事ノ依頼ヲ受ケタルニ非ザレドモ現状ヲ看過スルニ忍ビズ之ニ代ツテ緊急御通知申上グ
沖縄島ニ敵攻略ヲ開始以来陸海軍方面防衛戦闘ニ専念シ県民ニ関シテハ殆ド顧ミルニ暇ナカリキ
然レドモ本職ノ知レル範囲ニ於テハ県民ハ青壮年ノ全部ヲ防衛召集ニ捧ゲ残ル老幼婦女子ノミガ相次グ砲爆撃ニ家屋ト家財ノ全部ヲ焼却セラレ僅ニ身ヲ以テ軍ノ作戦ニ差支ナキ場所ノ小防空壕ニ避難尚砲爆撃ノガレ□中風雨ニ曝サレツツ乏シキ生活ニ甘ンジアリタリ
而モ若キ婦人ハ卒先軍ニ身ヲ捧ゲ看護婦烹炊婦ハ元ヨリ砲弾運ビ挺身切込隊スラ申出ルモノアリ
所詮敵来リナバ老人子供ハ殺サルベク婦女子ハ後方ニ運ビ去ラレテ毒牙ニ供セラルベシトテ親子生別レ娘ヲ軍衛門ニ捨ツル親アリ
看護婦ニ至リテハ軍移動ニ際シ衛生兵既ニ出発シ身寄無キ重傷者ヲ助ケテ敢テ真面目ニシテ一時ノ感情ニ馳セラレタルモノトハ思ハレズ
更ニ軍ニ於テ作戦ノ大転換アルヤ夜ノ中ニ遥ニ遠隔地方ノ住居地区ヲ指定セラレ輸送力皆無ノ者黙々トシテ雨中ヲ移動スルアリ
是ヲ要スルニ陸海軍部隊沖縄ニ進駐以来終止一貫勤労奉仕物資節約ヲ強要セラレツツ(一部ハ兎角ノ悪評ナキニシモアラザルモ)只々日本人トシテノ御奉公ノ護ヲ胸ニ抱キツツ遂ニ□□□□与ヘ□コトナクシテ本戦闘ノ末期ト沖縄島ハ実情形□一木一草焦土ト化セン
糧食六月一杯ヲ支フルノミナリト謂フ
沖縄県民斯ク戦ヘリ県民ニ対シ後世特別ノ御高配ヲ賜ランコトヲ
https://w.wiki/5xaq / wikipedia より