なぜ一日(朝があり昼があり夜がある、これを一日という。そしてまた朝が来る。前の一日では明日と呼び、今の一日ではこれを今日と呼ぶ。)があるのだろう。
一日という時間は24時間と決められており。
それを24分割すると一つが1時間。1時間は、また、60分と呼ぶ。
60分を60分割して一分となり、一分をまた60分割できる。それは1秒と呼ばれる。
この一日はとても長く、寝たり、起きたり、食事を3回取ったり、勉強したり仕事をしたり、遊んだりしてようやく丁度よい。
しかし、この一日は人と人とが交流(意思疎通を取り合う)ことで成り立つ。
それは一日を決めた者が一人ではなく、沢山の人が話し合って決めたことからもわかる。
この一日は人とどれだけ仲良く交流できるかで、良し悪しが決まると言って良い。しかし、良し悪しは自分で決めるべきである。満足できればそれで良いのだ。
しかし、仲良くするのはとても難しい。
意見がぶつかり合うことがほとんどだし、喧嘩なんてしょっちゅうである。
ちなみに、”国”と呼ばれるものが、喧嘩をしたとき、”戦争”と呼ぶ。
喧嘩をしたり意見がぶつかってしまう事を心の底から求めているものは本当はいない。
悲しいからだ。
悲しいと一日がいやになる。
明日もいやになる。
明日もきっと同じ事が起こると思うから。
でも、明日は必ず来るのだ。
しかし明日がいやになり続けることも、100%ではないが難しい。
あしたは楽しいこともあるし悲しいこともある。どれくらいの割合かは誰にも分からない。
そのなかで、何かを見つける事ができるのである。
何かを見つけることは大切である。
何を見つけるのかは誰にも分からない。
でも、それが良いものであることを私は願っています。
もし今日と明日を繰り返し続ける事ができたら、それは”思い出”と、呼ぶように決められているらしい。
その思い出がいつか、あなたの翼になるであろう。