人は過ちを犯します。しかし、心から内省できるならどの宗教の神様でも穢れを払い許します。
宗教ではそう解釈されているが、人の死とは、抑圧とは、どれだけの苦しみか測る物差しは無いです。
例え神を信仰していたとしても、また過ちを犯す人が少なくない循環が今の世の中です。
憎しみは無神論者から見ても非合理なのに、憎しみは絶えない。
何か奪われたと思えば、どうしても嫉妬してしまう。
だから、今、戦争という暴力が正当化されています。
自らの正当化が戦争や差別の原因と述べる方々がいますが私には持論があります。
考えるならば、自らの正当化の原因はでしょう。
相手より苦しんだ。相手は苦しんでいない。
相手は裕福だ。奪えばいい。
自分は苦しんだ。周りの人間も同じ苦しい社会で生きているけど、自分も同じ生活をするのが怖いから奪う。
悪いことをすれば、悪友でも仲間ができる。
相手に(何かを)奪われた。いつか(何かを)奪ってやる。
私は孤独だ。それではいやだ。注目が欲しい、方法が分からない。
苦しみは結局、財産だとか、名誉だとか、地位だとか、死だとか、孤立だとか、話し相手がいないとかの孤独から始まると思います。
この苦しみを分かち合うことしか解決方法はありません。
わたしが第三次世界大戦の回避を願っているのは、この苦しみを分かち合う社会を作られれば無意味さは分かるからです。
苦しみの原動力を、基礎科学に向けてみれば、戦争を永遠にしなくても良くなるような技術が開発されるかもしれません。
いや、されます。した、学者や戦う人たちは沢山いるのです。
如何に危険や苦しみや非難にあっても戦う人がいます。
受けるこの苦しみとそこからもがくという繰り返しが喜びや嬉しに繋げたり、
だれかの役にたったり教訓や科学、文化を次のバトンに渡したりするのです。
本当に命を消耗しての戦争が必要ですか?
我々がちっぽけで無視していいのは事実ですと決して言いたくない。
認めても、それは質量までだ。
ちょっと話が飛躍します。
この我々の住んでる地球の質量は約6580000000000000000000トンもあります。一人の力は、せいぜい平均重さ65キログラムなので9.8784194528875379939209726443769e-21%ぐらいしかないかもしれません。
そのなかで、生まれ100年前後で死んで、命が生まれていくのです。
ご飯を食べたり、寝たり、働いたり、温泉入ったり、遊んだり。
そして、人生の難題に悩み、たまに解決して満足する。
確かに地球単位で見たらちっぽっけなものです。それははっきりしています。
でも、どこまでがマクロでどこまでがミクロの世界なのか。
約100年という時間の中で遠い遠い宇宙空間から見れば9.8784194528875379939209726443769e-21%という人間は確かな人格を持っていて、決して一人として意味を持つ。
この、星を陸や海や空を渡り宇宙まで目指す我々は、果たして質量以外小さいのか。
山の山頂まで行って、無彩限に広がる川に湖に海に、エアーズロックに、彫刻や絵画、文学や音楽、映画、ゲームや漫画にスーパーカー、男と女に、出会いや別れに、上げてもキリがないぐらい感動する我々は、我々の人格は果たして小さいと断言できるか。
苦しみを役立てようとしたのではないのか。
この、宇宙の片隅の地球の上に存在して、人ひとり全く違う心を持っていて、気持ちを共有できる人が80億人以上もいます。
受けるこの苦しみとそこからもがくという繰り返しが喜びや嬉しに繋げたり、
だれかの役にたったり教訓や科学、文化を次のバトンに渡したりするのです。
大きなことしていると思いませんか。
核という人類絶滅兵器がある今は、最後のチャンスです。
戦争が無意味であると僕は証明します。
第三次世界大戦を回避して、戦争の必要のないシステムを作るべきです。
それは、形ばかりの民主主義でも共産主義でもなく。
何故、戦いにこぶしや心からの言葉を使わず、
何故、守りたいから守る人同士で殺しあわなければならないのか。
人類は核という、1万年後には確実に石器や土器と同じぐらいの価値に見られるだろう。
そんな物を捨てて、見たことも行ったこともない場所への旅立ちの時です。
少しアマルフィの話でもしますか。
ヘラクレスが愛したニュンペーの名に由来した地名で「ヘラクレスはそのニュンペーと仲睦まじく暮らしていたが、ある日突然、彼女が死んでしまう。それを嘆いたヘラクレスはこの世でもっとも美しい土地に彼女を葬り、街を切り開いて彼女の名を付けた」とされる。
苦しみを苦しみに関連付けるべきではない。そう、させてはいけない。
これは僕もの疑問です。
何故、人は人の痛みを理解したり、痛みを訴えたり出来るのだとおもいますか。
共感というそれは、それが最高の傷ついた心の絆創膏だからだと思いませんか?