朝、ぽーたまのスパむすびを買った。
たしか、開店直後だったとも思う。
ホテルの朝ごはんを食べ、スパむすびを持って那覇バスターミナルに行った。
すごく大きいバスターミナルでビルの中にある。
バスまで時間があるので中を散策すると那覇図書館があった。かなり上の階だったと思う。
立派な作りで温かみのある木目調、それと企業オフィスのような雰囲気も感じた。
沖縄の人はすごいものを作るのだなと思った。
沖縄高速鉄道計画という気になる本を見つけたので、もう少し居たかったがバスの時間なのでバスに乗ることにした。
バスに乗った。沖縄のバスでは立席乗車はマナー違反。席に座らなければならない。
怒られてしまった。
でも安全性にとても気を使っているのが嬉しかった。
バス停を降り、南風原文化センターに向かった。
文化センターの方が暖かく迎えて下さって、諸手続きを終えた。
今回見学させていただいたのは、沖縄陸軍病院南風原壕群20号だ。案内を下さるおばあ様もいらっしゃった。
沖縄には海軍壕があるが今回見学した壕は沖縄戦末期のものだ。
そして、この壕は陸軍病院。案内本当に感情を揺さぶられる内容を説明伝えて頂いた。
0.出発
レインコートと長靴を履いて山道に出発する。
①召し上げ
海軍壕に従軍女学生は、爆弾が降り注ぐ中、壕までご飯を運ぶことを強要させられた。水のようなお粥を大量にだったそうだ。
②沖縄の海軍壕の大半は埋められた。
壕は戦後、恐怖の象徴になり、調査前に埋められた。
③壕の中
かなり重苦しい空気が流れている。
壕の中は当時、病院で何千という患者を収容していた。
しかしこの壕、横の広さが4メートルほどしかない。縦が300メートル。そこにベットと医療器具、手術室をもうけてあったのである。
そこに治療のしようもないけが人が沢山いたのだ。
中は今現在はきれいに片付けられていて、すっきりとしていた。
③クワズイモとリュウキュウコクタン
僕は陸軍病院を出た。息をいっぱいにできた。当時は、ここから戦闘に向かうと考えると悲しくなる。
案内係のおばあさまが、沖縄戦末期当時の話をしてくれた。
「当時は食えるものがなくて、雑草と苦い木の実を食べて何とか生きながらえた。サツマイモもなくて、その葉っぱを食べていた。時々間違えてクワズイモ(食べられないから命名)を食べてお腹を壊して死んでしまった人もいる。」と、おっしゃっていた。
僕は今でも、この南風原に生えている苦い木の実。リュウキュウコクタンを食べた。おばあ様に止められたが食べた。
渋いし苦いと思った。当時の人の気持ちが少しでも分かった気がした。
のちに、おばあ様が食べても安全なものだったと話して下さって安心した。
終わりに
僕は犠牲の大きさを知らなかった。
一人の人生がどれだけのものなのかは未だに分かっていない。
ただ、絶対に知らなければならない苦しみを知った。
僕が楽しみにとっておいた昼飯のぽーたまのスパむすび、それさえもない中、戦争を空腹で、大傷を受け、それでも戦って死んでいった人が守った守ろうとした沖縄という地が、とても難しいことを理解した。